「サピックスを辞める!」となったとき、urashimamama長男は意外にも動揺した様子でした。あんなに勉強しなかったのに、なんで!? と思ってしまいましたが…。
子どもは自分からはお稽古事を辞めない
長男が小1のときに、知育教育のお教室を辞めたときも、いざ辞めるとなるとちょっと困った様子でした。気が進まないようだったので辞めることにしたのにさっ(^_^;)
お稽古事をどうしようか考えるとき、長男に「辞める、どうする?」と尋ねると、長男は必ずといっていいほど「辞めない」と答えました。
恐らく大抵の子どもは、こういったときは、返事は決まって「辞めない」と言うのではないでしょうか。幼稚園、小学校時代の周りのママたちからも度々そんな話を聞いていました。
きっと子どもの「辞めない」は、大人の「辞めない」とは、ちょっと違うものなんだろうなあと思います。
子どもは、結局は“お稽古”の意味も、“辞める”ことの意味もよく分かっていません。幼児期に始めるお稽古事というものは基本的に自分の意志と関係なく親が連れて行って始めるものですし。でもそのお稽古も、始めれば生活リズムとして定着していきます。生活の必須事項となる。子ども、そのくらい適応力が高い。なので、お稽古事を辞めることは生活の“インフラ”が一つ無くなるのと同じです。喪失感はあるし、無くなることへの不安を感じるのでしょう。辞めた後に広がる世界も見たことがないわけで。だから、「辞める? 辞めない?」と聞かれると、反射的に「辞めない」と言ってしまうんだろうなあと思います。
お教室側は、そんな子どもの言葉に乗じて「本人がそう言ってるんですから、大丈夫! これからですよ」なーんて言っちゃて、客に逃げられないよう説得します。親としても子どもの「辞めない」を聞くと、ついつい「やっぱり!? 伸びるのはこれから…!?」と、子どもの言葉に期待して辞めるのを躊躇してしまいがちです。
でもその言葉に惑わされてはダメ! 要するにこういったケースで返ってくる子どもの「辞めない」は、本心ではありません。
長男はこれまでのお稽古を辞める時と同じ感覚で、いざサピックスを辞めるとなったら、それはそれで動揺を覚えたのだと思います。
長男なりのプライドもあった
小学校のお友だちの間では、中学受験をする子はイコール優等生、さらにサピックスに通う子は超優秀、というイメージが固定化されていたようです。一目置かれる存在になっていたというか。
長男自身もそういった目で見られていることを、ある程度自覚していたようですね。そしてそれが少なからず優越感になっていたようです。いまいち中身が伴っていませんでしたが…(^_^;)そのような優越感、特権意識が持てなくなることについて少々抵抗感があったようです。さらに中学受験仲間から“脱落”してしまう、“出遅れる”という危機感も抱いたようです。
確かに、そういう点で複雑な思いはしたでしょう。でもそれは、見栄でしかない。そんな気持ちに捉われているなら、いっそのこと辞めてしまった方がいい。
子どもと同様、親も塾に行っていることに優越感を抱いたり、塾を辞めることで周りに遅れを取るかもと怖れを抱いたりすること、あると思います。urashimamamaの中にもそういった気持ち、塾を辞めるときに少なからずありました。でも、そんな感情に捉われて身動きが取れなくなるのは一番良くないと思います。
見栄のために惰性で続ける、そんなことを当たり前に許してしまうと、将来も自分の気持ちを大切にせず、体面ばかり考えて自由になれない大人になってしまうかもしれないとurashimamamaは危惧してしまいます。…そこまでのことは考えすぎかもしれませんが。
当時を振り返り、長男はあの時どう思っていたか?
この度、本人にもあらためて当時の気持ちを少し聞いてみました。当時を振り返るとあのまま塾に通い続けるのはやっぱり良くなかったとは思っているようですが、やはり辞めるとなったら、それはそれで悔しかったそうです。
結果的には解放されて良かったけど、辞めたばかりの頃は「よかった」という気持ちより、悔しさや劣等感の方が上回っていたそう。「その場ではダメだったんだから、それはそれでしこりは残りました」と言っていました。でも、「だからこそ、『あれは、自分には合わなかったんだ』と言い聞かせて考えないようにして頑張った」とも言っていました。
中学受験では残念な結果に終わりましたが、塾を辞めてからの方が着実に吸収し定着していったのではないかなあ…とurashimamamaとしては思っています。レールに乗っかったまま、受身で“分かったつもり”になるよりは良かったかなあ…と。難関校向けにはレベル・量共に甘かったとは思いますが。着実に身に着いたとは思います。